不幸と対面する中に幸福への道が

不幸と対面していくなかに「幸福への道」がある

(書籍 ヒルティの語る幸福論 抜粋)


不幸は避けるためでなく対面することによって、幸福への道があるというこの言葉

しみじみわかるようになってきたなと思います


不幸の奥に幸福がある

不幸と思えし環境の中で、それを幸福へと転じていく


実感としては、不幸にどっぷり浸かり、その中で自分との対面を容赦なくさせられます

その不幸を、最初は環境のせい、人のせい、自分のせい

どうしてこうなったのかと後悔したり

恨み心が出たり

でも、変わらない現状に落ち込み落胆しながら、そこからゆっくりと、とりあえず前に進みはじめる

そうすることで、自分の気持ちと向き合い、自分の弱さと向き合い

それでも、一歩すすめようとしていく

1日、2日、一ヶ月、二ヶ月

半年、一年

あれ?少し軽い

しかも、精神的な体力、気力、そして体も前よりいいかも

そう感じながら

でも、まだまだ油断は禁物

まだ、心には色々な澱まが残っているし

自分の傾向性が完全に修正されたわけではない

そして、少し上がると、またさらに自分の心の中の澱みを見せられる


親による悲しみ

親を恨んでるとかではないけれど、感謝も沢山している


父が亡くなる少し前から、兄弟姉妹と連絡取るようになり、胸の痛み、怒りを非常に感じるようになった

それは、かれこれ2年前

その時から自分のこの痛み、怒りを見つめてきた


妹はずっと、姉の私はを避けてるようで、交流を持ちたくても持てなった

その理由がわかったのだ

それは、親がいわゆる毒親であったからなのだ


毒親という言葉、何となく聞いていたけど、まさかうちの親が毒親とは思わなかった

それだけ、私の心は根深く麻痺していたのだなと、思う


兄とは連絡取りやすかったが、兄も妹のことを避けてる風で

間に立たされている感じがした


面倒くさいのでグループラインを作った


父の葬儀が終わり、色々落ち着いてから、母と兄弟姉妹で食事をした


その時、猛烈に気分が悪くなった

体調ではなく、腹が立ったほうの気分が悪くなったのだ

考えてみれば、父抜きで母と食事に行ったことは随分なかったし、ましてや妹とも随分と一緒に食事など行っていなかった


その時感じた気分の悪さから、どうしてこんな気持ちになるのかと、

いや、前から、嫌な気持ちになることはあったけれど、向き合ってこなかったから

いざ自分の気持ちと向き合うと、色々わかった


最初は怒りだった

そして、わかった

私は悲しみを胸に溜め込んでいたのだ

だいぶ胸が軽くもなり、兄、妹へ色々な思いを告げ、兄弟姉妹関係は少し修復されてきた


ただ、母への思い、悲しみは結構根深いなぁ


心が弱ってきたらなるべく体を使う

なんやかんや、心が落ち着かない時は、歩くに限るなと

心がざわついていると、夜も眠れなくなって、

それでもって朝起きられなくなる悪いパターンに陥ってしまうから


そこから抜け出すには、歩くことだなと思う


私は仕事を、あまり人間関係のない(多少はあるけど)ようなものにして、体を使うようなものにしたのがすごく良かったなと思います。


落ち込んでら時

どうにもならないような時

そんな時こそ

歩く

体を使う


そうすることによって、体が疲れて夜眠れるから

そうすると朝も起きられる

とはいえ、心が落ち着かないと体のだるさはあるけど、それでも体を動かすことで、心がそれ以上落ちない気がする


生活に余裕があったら、歩く

生活に余裕がなかったら、私のように体を使って働く

とはいえ、若くもないから、膝痛かったり、目がしょぼついたり、指もへバーデン結節で痛い時あるし、なんとなく頭もぼーっとしたりはしてるけど

多分、何もしてなかったらもっと体調悪くなってると思うから


それで、なんとなく少し浮きあがってきたのかも


体を整える

いや、まだ整えきってないけど、そうやってるうちに少し体力もついて、心も強くなってくる気がします

浅い反省と深い反省があるのかも

自分の悪いところは、何となくはわかっていたが

本当にとことん反省するためには、自分の不甲斐なさをとことん思い知らされないとできないものなのだなと、思った


定期的にコツンと、自分の悪いところを思い知らされることがあった


その度に、反省して、修正していたつもりだった


けれど、本当に心の根の所、自分の傾向性、もっと言えば、何度も生まれ変わって生きてきて培ったものがあるのだろうなと


良い部分、悪い部分はもちろんあるだろうけれど、悪い傾向性に関しては、そう簡単にはいかないもので、徹底的に自分を見せられ、打ちのめされ、わかった!参りました!もう自分を変えるしかないと決意が必要なような気がします


少なくても私の場合はそうです


自虐的になるということに似ているかもしれないけれど、これは全く別次元で、自分をいじめるというのでなく、徹底的に悪い部分を見て思い知らされ、本当に嫌になるくらい、消えたいくらいな気持ちにもなるのだけれども、なぜかそれを客観的に見ている違う自分もいて、それでいて、そういう自分でも生かされていて、生きていくということでしか、その悪い部分を修正できないのだと諦め、認め、そこから立ち上がってとにかく歩くしかないと思うというか


小手先の反省は、気づいた時から後には効果あるけれども、本当に深い所まで反省するには、自分の心の膿のようなものを出さないとできない

そう感じました


そして、心のその深い所まできて、心の闇の部分、沼の中に落ちているものを一つ一つ手探りで見つめて、これは何だろう、これは何だろうと見ていく、意識することで、紐解かれていくというか


ただ、それを見るためには、やはり人それぞれの時期というものがあるのだろう


ある意味、自分の不甲斐なさを知る時期は、挫折している時期のように感じるけれど、また逆に光がさしていて、ようやくその闇と対面することのできる時期でもあり、次へ進む前の大切な時期なのだと思う


今、少し浮き上がり歩き始め、何となく歩けるなと感じ始めているからそう思うのだろうけど


そして、その自分の不甲斐なさととことん対面していく事は、辛い作業でもあるけれども、とてもありがたい作業でもあるなと


もっと若くして対面しておけば良かったのに

いや、対面していたけど、スルーしていたのも自分だったのだから仕方ない

心を光のチャンネルに

最近ようやくわかった


「心を操作し、光のチャンネルにあわせよ。

みるみる運命が変わっていくだろう。」

(書籍 不滅への道より引用)


心を光の方向へ合わせるということ


簡単なようで簡単でなかったな


それは、余計なものを一杯、心に溜め込んでいたから


まず、その余計なものを取り除かないと、すっきりと光のチャンネルに合わせていけなかったな

合わせているようで、合ってない

合わせてるつもりでも、合ってない

まずは心のゴミを取り除く作業

これが結構大変でした

自分を責めるのをやめよう

それまでずっと割と自分はポジティブだと思っていた

けど、

本当に4年位前から、何故か色々な出来事がフラッシュバックしてくる

あの時、

その時、

あんな時、

忘れていた事が思い出されてきて

しかも、嫌なことばかりを


これ見させられてる


自分を見つめないといけない


とことん自己嫌悪に陥った日々でした


今、ようやく抜け出せてきてるところで、ようやく言葉にできる

そして、自分を責めるのをやめようと思えたので

だからブログを始めてみようと思ったのです

長かったなぁ


その間、普通に暮らしてはいました

仕事もしていたし

でも、仕事もそれほど人と接することもなく、業務に専念できる仕事だったからよかったのかも


ただ、意識的に、友達と距離を置いていたかな

友達と一対一で会う時はよいけれど、数人で集まるのはきつかったので、それはなるべくしないようにしていたかな

ちょうど、父が入院したり、姑が入院したりもあったし

コロナ禍ということも、人と余計に会わなくてよかったし


家族とは普通に接していたので、家族はこんな私の心の状態は知らないだろうな

でも、家族からは元気をもらっていたかも

家族ならではで、余計なことを喋らなくても一緒にいられるから

それはありがたいよね




本来の自分に気づけと

やり直ししよう

という思いはじわじわと日に日に強くなり

世の中の環境については、自分でコントロールできないことは、本当に沢山あるけれども、

自分を取り巻く環境の変化については、より良いものにしていこうという努力はしていたはず

けれども、年齢を重ねるうちに、自分がコントロールできないもののがやはり多いのだと、ようやくわかったのかもしれません


それでも、逆説的ですが、

自分を取り巻く環境も、本来の自分としての生き方をしていたら、もしくは、本来の自分としての生き方を取り戻していたら、もっと早く変化していたのだなとも思います


要は、私自身が違った方向へ思いと行動が向いているために、違いますよ!と教えてくれてる

そういう気もします

それで、いよいよコントロール不能なのだと思い知らされただけ


なんか変だな、違うな?と意識し始めたのは4年前から

でも本当は、もうずっと前から違うというサインはきていたのだ

私が真摯にその問題と向き合うということを、しなかっただけで

小手先で、コントロールしようと

意識を変えるという方法でなく

現実的な方法で、なんとかなると、自分の深いところまで見ることなく、変えようとしていたために、なんだか遠回りをしてしまっていたのだな


けれども、その遠回りも、もしかしたら、本来のところへたどり着くために必要なプロセスでもあったのだろう


なんだか、支離滅裂の文章ですね


結局は、本来の自分に気づけ!と、ついに腹をくくったということです