アウトプットを通して

私は、他のプラットフォームでも趣味についての勉強を綴っているのですが、それをすることによって、

アウトプットって本当に大切なのだと感じらことができました。


読んで欲しいとかいう思いは、それほど積極的にはありませんが、もしかして読んでいただけたら、読んで下さった方が元気になって下さると良いな。


そんな思いもあります。


けれども、何よりも、自分自信が文字にすることで、気持ちの整理ができているなと感じます。

投影ってあるんだ

親について色々思い馳せてきましたが、妹に対しての気持ちに変化が出てきました。


思えば、妹ができてから、ほったらかされ、親の愛情欲しかったのだなた、今は思います。


でも、無意識に妹を嫌っていたのは、私自身。


そんな心を発見しました。


だから、辛かったのは私もだけではないし、姉や兄に(兄はしてないかもだけど)辛く当たられたなと、感じたこともあったはず。


妹をいじめようとか、嫌いとか、意識していなかった。


全て無意識だったけど、

妹と似たような年齢で妹と同じタイプの子が苦手だった

結局その原因は、私の投影だったのだ


投影だったのだと、今日認識したら、妹に似た子のこと、嫌な気持ちが消えていた。


そして、今まで辛いのは自分と、被害者意識でいたけど、妹も辛かったのではないかなと、

妹の辛さに思いを馳せられた

嬉しい

思いの力をなめてはいけない

‘’思い‘’について思うところを書き留めておきたいと思います。


思いは現実化するとか、思いによる自己実現とか

色々ありますが、


そもそも、思いというのも、表面的な浅い思いと、潜在意識から出る、自分でも思いもよらない部分での思いというのは、違うように思います。


あたかも表面的に思って、それを現実に引き寄せているように見える場合でも、もしかしたら、それはとても深いところから発せられる、そしてその思いを叶えるために人知れず淡々と努力してきた歴史があるのかもしれません。


逆に、思っても実現しないという場合、それは表面的には実現して欲しいと思いながらも、深い深い心のどこかで、その思いを否定していたり、

実現したら困るとか、どうしようとか、

実現に向けて反対している潜在意識がいるかもしれません。


そうであるならば、表面的には思っていないように見えても、潜在意識の深いところで、こうあって欲しいと半ば願いのように思っているようなことは、それが実現するまでに、どれほの時間、年月がかかるかはわかりませんが、段々にそのように向かっていくのではないかなと、最近、つくづく思います。


表面的に願ったことが叶わず、逆のことが起こるけれども、そのことでかえって自分の本来の自己を発見できたり、自分にとって嫌なことが起こったけれども、それのおかげで軌道修正することができたりして、

その嫌な出来事と思えることが、自分へのギフトと思えるとか(そう思えるには時間がかかるかもしれませんが)、そういったことがあるのだろうなと、この年齢になってわかってきました。


そういう意味で、思いというものを大事にしていかないといけないと思います。


自分の思い

潜在意識レベルで何を思っているのか

そこをしっかり見つけたいなと、そう感じます。

毒親の考察

YouTube毒親育ちのbefore afterというのを拝見しました。

ものすごく腑に落ちるところが沢山ありました。


親から知らず知らずのうちにコントロールをされていたと、父が亡くなったことをきっかけに気づく機会を得て、自分の心の問題と向き合いました。


毒親育ちは自尊心が低いというか、自分に自信が持てないという


私はへんなプライドがあったので、それを自信と勘違いしていたのですが、自分の中に、そのプライドと自信のなさと両極端なものがあると、感じていました。


全て、親のせいとは言いません。

自分の責任も勿論あるので、自分の責任です。


でも、その自信のない部分をどう改善していくかが、紐解けた気持ちがしました。


それとは別に、自分に自信をつけるため、コツコツと始めてることがいくつかあります。


でもその前に、まずは頑張ってる自分を認めようと、思いました。

私は自分のことを一番認めていなかったのです。

意外と人のことは素直に認めてます。

そして、人のことは、偉いなと、素直に思えるのに、自分はまだまだダメだと、自分にいつもダメ出ししていたのですが、自分のことも認めよう!と思いました。


父が亡くなってから、高齢の母は今のところ一人でなんとか暮らしております。

以前は、私は母の面倒をみようと意気込んでましたが、最近は、出来ることはやっていくけど、できなこともあるし兄と妹とも連携とっていこうと

そう思うと、とても肩の荷がおりました。


そんな私の精神的変化も感じ、母も最近は私より妹へ電話しているようです。

以前は1週間に一度は連絡あったのですが。


連絡がないのも、とてもほっとしています。

私からは連絡してません。

何かあれば連絡くると思います。

時々どうしたかなと思うのですが、連絡する気持ちになれません。

心が正直になってきました。


占いについての考察と自分を知ること

色々な占いがありますし、奥深いものも沢山あると思います。

私は、40代過ぎるまで占いについては、あまり興味ありませんでした。


しかし、縁あってヒューマンデザインシステムと、算命学を知り、自分について、客観的に見ることができた時、

今までの人生の流れなどを、それらと答え合わせしていくと、

すごいなぁと思わざるを得なかったですね。

これは皆さま、知りたくなってくるのも頷けます。


自分の傾向生、人生の波のタイミングなど、なるほど、なるほど!と

そして、何か、それほど無理しなくてよいのだ、私らしく生きればよいのだと、癒されるようなところもありました。


私は算命学ではエネルギーの数値的には普通だったのですが、ヒューマンデザインではノン・エネルギータイプで、エネルギー切れを起こしまうタイプでした。

また、算命学では最身弱という分類に入るようです。


わかったことは、体力、気力がある人のように、現実世界でバリバリ働くのには、どうも向いていないようです。

これもとても納得しました。


ただ、エネルギー弱めなら弱めなりの働き方を、模索しなければいけません。

そういった意味で、大変役に立ったのです。


また、今後の人生の流れ的なものも知ることできました。


大変勉強になりました。

浅い所しかわかっていないのかもしれませんが。


色々とわかったことについては、勿論、しっかりと心に留めていきたいと思ってます。


面白いなと思ったのは、算命学的には、自分の命式というものをしっかりと生きていたら、大きな渦は起きないようです。

ヒューマンデザイン的にも、自分のタイプのストラテジーと権威というものをしっかり体現することで、自分らしく人生を行き渡っていけるようです。


共通していますよね。

己を知ること。

これなのだなと


ヒューマンデザインと算命学を知ってから、かれこれ数年以上経ってますが、

自分を知る作業、簡単なようで大変でもあり、今まで生きてきた過程でつけてきたものを、落としていく作業に手こずってますが、それでも心穏やかに、前に進んでいるように思います。


知的生活という幸福

比較幸福楽入門という書籍を読みました。


ヒルティ、アラン、ラッセルが幸福論を書いた年代が58歳前後だったようです。


なるほどと思いました。


そのあたりの年代になると自分の、生き方見えてきて総括的に人生の幸福というものについて精査してくるのですかね。


幸福というものがとても個人的な楽しみをどのように見つけるかというか、

自分としてどのような在り方が幸福なのか

それが知的生活という静かな時間の中にあるという


知的生活の方法を書いた渡部昇一先生しかり、幸福論を書いた方たちしかり、知的生活者であったということのようです。


知的生活という幸福


友達と旅行へいったり、また趣味の楽しみもありますが、まだまだ仕事もしながらの忙しい日々の生活の中で、静かな穏やか時間を捻出し、読書をしたり考察したりしていく時間の楽しさは格別です。


こういった静かな時間を、若い頃から持てていれば良かったとも思いましたが。

ただ、この本にも書かれてありますが、若いうちに実学をすることも大事と書かれておりましたので、この年齢で良かったなのだなと

知的生活を続けていくためには、経済的な基盤の必要性も書いてありました。


人生もう一度リスタートと感じた時点で、気づけたことありがたいと思います。



この年齢になって気づくこと

最近、ヒルティの「眠られぬ夜のために」という本を、図書館で借りてきて読んでます。

第一部もあるのですが、たまたま借りたのは、第二部でした。

この本、良いですね。

最近の本を読み慣れてるせいか、昔の本は、若干、字が小さく感じるのですが、それでも読んでると心が穏やかになります。

本から流れている気のようなものがあるとしたら、まさにこの本は心が洗われるような、浄化されるような、そのような本ですね。


この本、若い頃だったらきっと読めなかっただろうなと思います。

内容がとても深いく、若い頃の私には心に響くことはなかったのだろうなと思います。

心のひだが育っていなかったと思いますから。


日記形式になってる本ですが、たまたま読んだところに親のことが書かれてありました。


私の文章では稚拙になってしまいますが、

要は

両親や保護者が子供に感謝を求めると、子供は心の中で不快に思う。

言葉に出されるならばなおさら。

そのために、子供は恩知らずの性格なりがちということです。

しかし、彼ら自身がそのように育てあげたということに、気づかないと。


それについて、とてもわかるな

と、思いました。


うちの母も

「やってあげたじゃないの」

とか、

よく言います。

なんとなく恩着せがましい


感謝してるのに


これからも何か出来ることはしたいと、思っているけれども


でも、なんか清々しい気持ちになれないのは、自分の気持ちの整理がついてないからかなと、感じていたけれど、これを読んで心がほっとしました。